「思えば、遠くへ来たもんだ」。遠くなった自己を投影する若芽

ときどき、

「思えば遠くへ来たもんだ」とふわりと感じることがあり

そんなとき、ふふっと知らず笑みがもれてしまう。


たとえば、20歳近く年下の社会に出たての方々が

それこそニザンの若芽のごとく、ただ日光を求めるようにして

知らない知識を学ぶことを、呼吸をするように求める姿を

目にすると、まぶしいほどの驚きにかられるのだ。

いくつになったって、どんな経験を積んできたって、

新しい知識を得ることは歓びだ。それは間違いがない。


けれどあんなふうに、おごりなくひたむきに

ただ「知りたい」という欲求のために求める姿が

かくも新鮮なのかと、つまりそこに邪さが存在しないことに

瞠目させられるのだと思う。


いつか人は、「褒められたい」、「評価されたい」などのもと

知識を得ることを義務のように受け入れるのかもしれないけれど

若芽の彼らにそれはない。


そして彼らの縦横無尽さ、貪欲さ、

その貪欲さとはこちらの生命力を奪うほどに吸い尽くしてやろうという

飽くなき…まさに飽食することのないハングリーさ!


ああその、胃袋の底なしさこそが

もしかしたら若い人々の生命力を表わしているのかもしれないな。


達観、飽食、無気力、厭世。

これらを個性の表示としてではなく、それこそ呼吸するように

身についてしまったと感じるときこそ

自戒の念を持ちたいとひしひしと感じる日々だ。

箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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