甲子園が終わった。
日本中があまりにも熱狂した、平成最後の夏が終わった。
朝日新聞によると、
1915(大正4)年に始まったが、戦時中の42~45年は中断し、
今年100回の記念大会を迎えることができたという。
もちろん、今年の大会は素晴らしかった。
けれどたぶん、私にとってどうやら「甲子園」はそもそも特別な思い入れが
あるようなのだ。
2006年、痛いほど冷房を効かせてカーテンを閉めた部屋で
頭のなかは止むことのない思考が出口を失い、文字どおり完全に行き詰っていた。
私はその年、身の程を越えた事業に手を出していて
加えて会社を立ち上げたばかりのタイミングだった。
経営をする、ビジネスを生む、回す、収益を得る、会社の体を築いていく、
何もかも未熟で何よりも経営者になることが初めてだった。
好きなことで自分の自由意志で起業していたら、ここまで追い詰められなかったと思うのだけど
なぜかこんな自分に期待をかけて、出資するという人の存在で会社をつくった、
いわば甘ちゃん経営者が、ズタボロになっていく最初のスタート地点にいた。
私は無音の静けさよりも、雑音が多少あった方が考え事がはかどるタイプなので
そのときも「鑑賞目的」ではなくテレビをつけていた。
そして、昔から高校野球の「音」…、応援団の演奏、声援、カキーン!と響く白球、
こうした音がとても好きで、甲子園シーズンは画面を見ていなくてもテレビをつけている癖があった。
そのときもそんなふうにして、見るともなしに見ていた画面のなかに
第88回大会全国高等学校野球選手権の決勝が行われていたのだ。
そう、規定の延長15回を超えてなお決着がつかず、異例の再試合が翌日行われることになった、
忘れられないあの一戦だ。
大歓声のはずなのに、まるで無音のように静まりかえって感じたのはどうしてだったろう。
マウンドに立ち続ける孤高の人は、流れ出る汗を丁寧にハンカチで押さえた。
たった18歳の、細くまだ頼りない、見るからに華奢な少年ピッチャーと、優勝の本命と目された
駒大苫小牧には現在海を越えて活躍する将来のメジャーリーガーが死闘を繰り広げていた。
苦しさをおくびにも出さず、心の乱れも極度の疲労も気取られず投げ続ける孤高の人の姿に
自分がどれほど甘い人間なのかを体中で感じた私は、滂沱の涙を流していた。
心のなかにどんな嵐が吹き荒れようと、精神力で封じ、逃げ場を残さず正面から闘う姿は
その当時の私が求めても体現しきれずにいた、理想そのものだった。
この試合の最後をwikipediaから引用しよう。
’’最終回の15回、表は三者凡退。なお、この時斎藤は15回にもかかわらず最速147km/hを記録した。 裏、1四球でランナーを出したが抑え切り引き分け、翌日に再試合となった。試合終了の瞬間、観客はスタンディングオベーションで選手達を迎えた。試合時間は3時間37分で試合終了時刻は16時37分だった。‘‘
決着は翌日に持ち越される。なんてこと!次の日もこの精神力をもって闘えるものなのか?
‘‘次打者・田中の4球目に斎藤はこの日最速となる147km/hを計測する。ファウルで粘る田中も7球目に空振り三振で試合終了。決勝戦の所要時間は24イニングで5時間33分であった。‘‘
この試合は、私を変えた。決定的に変えたと思う。
少年が自身の信ずるものに魂を賭けたその姿が、教えてくれたものは大きい。
なお、田中投手が海外へ渡った際に現地メディアではこの試合のことにも触れられ、
「斎藤佑樹との一騎打ちは“日本の美”だった」という高校時代のコーチの言葉が紹介されたという。
さらに後に甲子園を騒がせた清宮が野球を始めることになったきっかけが、この試合だったそうだ。
それからなのだ。私が甲子園をまぶしく見るようになったのは。
最後に、仕事先の名刺には、自分の好きな言葉を印刷してもらうことができるのだけど、
私はそこに、以来胸に誓っている言葉を選んだ。
「あまりにも…!」すぎるので、照れ隠しでなんちゃってフランス語表記なのだが、
「Le but est de dominer le quotidien」すなわち、
「目標が、その日その日を支配する」。
これもまた、2005年で勇退した高校野球の名将が座右の銘をした言葉なのだった。
私はこれを絶対の誓いとして、あれから生きている。
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