「無慈悲」で「刹那」な季節を生きる人たちへ

土日合わせていったい、何時間をベッドで過ごしたのだろう?

というのを考えるのはナンセンスだ。なぜなら、

ほとんどベッドの住人として過ごしたのだから!


病気をする前の自分は、「頭至上主義」だったので、

どんなに心が摩耗しようと、

体が限界と悲鳴を上げようと、

それらを無慈悲に無視をして、「やると決めたからできないはずはない」という

頭が発する声に全身全霊で従うことができました。


それが、

病後は単純にそうしたくても、体が純粋についてこないという経験をしたことで

頭が決めたとおりにならない体、というものを意識するようになったのです。

体というのは今まで単純にフィジカルを指してきたけれど、

そうではなかった。

意思をつかさどる頭、どう感じるかの心、フィジカルとしての体、この3つそろった

状態を身体というのだとわかったのです。


ときに人生を四季になぞらえることがありますが、

そういう意味で私は今、人生の「秋」を歩き始めた季節を生きています。

無我夢中で過ぎた青年期には、目的のために手段を択ばない無慈悲さがありました。

それは、自分に対しても人に対しても。


無慈悲な季節は、言い換えて刹那の季節であり、

それはやはり眩しくも青春なのであって、まごうかたなき人生の「夏」です。

青く繁る葉という葉をすべて、光に向けて繁茂し尽くそうという

生命力のときを生きる若い人たちを見ながら、

その危うい均衡にハラハラさせられてしまう。


平均台を猛スピードで駆け抜けようとする刹那な表現を目の当たりにして

均衡をくずしたときのリスクを思いつつ、

かつて自分もそのようにするしかない日々を生きてきたことから

どうすることもできずに「夏」を見守るしかない「秋」なのでした。



箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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