頭を打たないと学ぶことのない愚か者

はっとさせられる出来事が続いた。

ある意味ではこれは啓示といってもいいのではないかと

さすがに意味深いものとして受け止めざるを得ないものである。

photo by Thomas Leuthard

10年以上前、とても苦しかった時代に

「自分の人生のコントロール権を取り戻さなくてはならない」と思い至った。

思い至る、という言葉を選ぶほどに

自分は自分の人生を、いつの間にか自ら選ぶ自由と尊厳を手放してしまっていたのだ。

それはもちろんのこと、他者のせいばかりではなく

やすやすとそのようにしてしまった自分自身に責がある。

とはいえ、貢献することや自己実現という青い時代に胸ときめかすこれらのことを

「馬の鼻先の人参」のようにして、巧みにふりかざす者の器が比ではなかったとは言える。


あれから何度、呪文のようにして

自分の人生の主人公は自分、と言い聞かせてきただろう。

そうしないといつの間にか、他者のために犠牲になることを

まるで美徳のようにして突き進んでしまう。


今度こそ、目が醒めたと言わざるを得ない、

いや、これで頭を打たなかったなら申し訳がたたない。

仲間や家族、そして自分自身に…。


時間は自ら主体的に組まない限り、自分のためにはつくれない。

忙しさでくたばっている週末、

そこまで身を捧げすぎない。

余力を残し、本当に着手しようと望むことに自分を使う。


人は他人の夢をかなえるために生まれてきたのではない。


どのような完成を目指すのか。

人間としての生をどう締めくくっていくのかを

そろそろ考えながら生きていくべきだ。


箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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