先日、「内村鑑三」という
自分の人生の興味関心フィールドでは、登場回数が極めて少ないのに
深度でいうとかなり深さを誇る単語について2日連続で遭遇する、
というこれまた稀有なことがあった。
でも、この「内村鑑三」の話が本題だとしたら、
前提に含む説明たるエピソードの話が不可欠で
ちょっとがんばって書いてみようと思う。
photo by Jonathan Kos-Read
10代の頃、とりわけ17歳の頃の自分は
とても厄介な子だったと思う。自分自身ですら当時から持て余していたのだから
大人……特に担任教師などにおいては非常に扱いにくい子だったと思う。
10代特有の、行き場を持たない透明な触手が
するすると音もたてずに伸びて
全身是神経!とばかりに自意識は肥大して、
鋭敏ゆえに非常に感じやすい子が皆そうであるように、自分のことも
他人のことも、正義の名のもとに傷つけることなどまるでこわくもないタイプだった。
そんな私が、そのころ体を壊すほどに悩んでいたテーマがある。
今になってみると、本当に世話ないわ…ってコトなんですけれど。
机は物を置くため。
椅子は座るため。
ペンは書くため。
もの言わぬこれらのものにさえ、存在する確かな理由がある。
では己は?
私の存在理由とは、いったいなんなのだろう!?
はい。
これが高校三年間、私を実に苦しめた答えのない問いだったのだ。
「モノ言わぬものにすらある存在理由を、生きている私が見つけられないのであれば
生きていてはいけないのではないか?」と考え、瞬間瞬間、日々、
ずっと全身でその問いに格闘し、納得できる答えはなく
苦悶する毎日を過ごしていた。
そのころは万事がその調子だったので、あるときふっと見出した
ある答えにもがんじがらめにされていく。それは、
「事実と真実は同じではない」ということ。
たぶん、これはある種の普遍的な真理ではある。
そして10代の私はつぶさに観察した結果として、
「大人のほとんどは、この事実と真実を同じものだと思い込んでいるうえに
事実を通そうとしてくる」ということを看破した。
今思えば、それがたぶん、大人になるってこと。
正論がいつも正しいわけではない、なんて知るのはそれから優に10年もたった後だった。
どうしてクラスメートは平気なんだろう。
この世に存在してよい理由も知らないのに。
どうして大人は「真実」を話さないのだろう。
本当の意味での解決にならないのに。
そんなことを、思い詰めるほど真剣に考えている毎日だった私の10代が
どれほど自分勝手に招いたにしろ、苦しみしかなかったかは
想像に難くないはずだ。
そんな日々に終わりを告げたのが、
大学入試を受けているときに現代文の問題で出てきた「内村鑑三」だったのだ。
つづく。
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