夢見る頃を過ぎても。

「35歳くらいを過ぎた人って色恋に悩むこともないんだろうな」と

傍若無人な純真さで、大人というものを定義していた若かった時代

よく年配の方が、

「まるで昨日のことのように」と枕詞で使うのを

鼻白むような心持ちで聞いていた。

「どんなに記憶が鮮明だとしたって、本気で “昨日のように” 思っているはずはない」

と、どちらかというと大げさに言う語り口に少しうんざりしていたかもしれない。


そ・れ・が!!!!!!!


本当なんですね、あれ笑。

photo by Eva Rinaldi Celebrity and Live Music Photographer

たとえば自分史における、10年くらい前のことであれば

もう充分に「昨日」と呼べる範疇の新しさであることに、驚愕する思い。

どんな出来事に悩み、あの人のふるまいの一挙手一投足におののき、傷つき、

またフルスピードで幸福のきっさきにまで疾走したのかを

ぜんぶぜんぶ、胸の傷みをもリアルに思い出せるのだ。


かといって矛盾するのだが、同じ頃に社会で起きた出来事や記憶というならば

10年なら10年なりの時間をきちんと感じることができるわけで、

私の場合で言えば、「昨日のように」と思える記憶は

実に個人的な出来事だけに限定するようなのだった。


冒頭の若かりし頃の思い込み自体も、実際に35歳を過ぎた頃でも

それこそ20代のはじめと変わらないくらい愚かに

充分イロコイに四苦八苦していたわけで、

たとえば今の自分が思う60代、70代というのはもっと、

時間の体感記憶が高速になっていて、

忘れたくない大切な記憶に関しては、永遠に「昨日のように」覚えているものなのかもしれない。


入れ物である肉体と、感受性や記憶といったものたちが

うまい具合に相似的関係の均衡を保つ時代を若者と呼ぶのなら、

これらの均衡が崩れ、入れ物の老朽化が重くなるのが老年時代となるのかしら。


箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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