歌舞伎は何も、特別なものではない。日常のなかにあっていい

ひどい風邪をひいてしまい、楽しみにしていたことも満喫できなかった。

思い返せばもっと規則正しく養生できていたはずなので、一人暮らしゆえの

自分への甘さが怠惰のつけとなった気がしている…


歌舞伎は、東銀座の歌舞伎座だけではない。当たり前か。

とりわけ私は年明け最初には、浅草公会堂で催される新春浅草歌舞伎を愛している。

なぜか。それは浅草寺があるからだ。

ここ浅草寺はいわずもがなの古刹であり、東京都では最古とされるという。

駅からすぐなのに、参道から江戸情緒を感じられるため外国人参拝客も多い。最近ではスカイツリーができたこともあり、観光地化はさらなるもののようだ。


浅草歌舞伎を開演する浅草公会堂は、ここ浅草寺の参道の先にあるため、ひやかしながらそぞろ歩いて向かうことができる。できる、というかむしろそうしてほしい。そうすべきだ。

新春のおめでたいにぎわいを集め、いそいそと笑顔で行き交う人々のなんと幸福そうなこと。

いやもちろん、その内実はわからないんだけども、そんなふうに感じられるくらいおめでたいムードが漂う。

この流れで歌舞伎鑑賞をする、というのはひとつの様式美に通じるというか、まあそんなわけでお薦めしたいのである。


ところが。


冒頭に記したとおり、ひどい風邪のさなかにあった自分は、

この華やかな沿道をひやかしながら歩くなんて余裕すらなく、一心に公会堂めがけてまっしぐらの体。もったいなー。


そもそも歌舞伎は半日がかりの長丁場なんだけど、3幕ほどの演目の合間合間の幕間がわりかし他の舞台よりも長い。でもその幕間も歌舞伎体験の一環として楽しむべきものであり、ここで甘味をつまんだり、和やかに過ごすのも一興なのだ。


ところが。


もちろんそんな余裕はこの日の私にはなく、前日になんとか平熱を安定して保つことができるまでに回復したものの、高熱を出したことで体力が失われていた。ようやっとのことで一幕を鑑賞することができた程度で、幕間になったのを潮にやむなく席を辞したのだった……

実は、「年末のサントリーホールで第九、からの年明け浅草歌舞伎」をひとつのセレモニー化しているのだが、実現できていない年の方が多い。

昨年は、年末の第九にピンチヒッターで登場した指揮者、サッシャ・ゲッツェルに心奪われてしまい、彼の公演情報を調べると年明けにオーチャードホールで振るというのであっさりと差し替え。

一昨年に至っては愚の骨頂、

秋に取っていたチケットを、年明け確認もせず日にちを勘違いしていて、念のため明日の開演時間のチェックを~~なんて思ってチケットを見たら終わっていたという。。無駄。ほんと無駄。

書いていて思ったけど、このセレモニーは私には合ってないのかもしれぬ。。


箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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