有限だからこそ、刹那のきらめきが眩しく感じられるのだと思う。
永遠に続くことに飽いて、人の歴史は始まっている。
お世話になった会いたい人のことを思い浮かべながら、まるでその人がいつまでも存在してくれているのを疑いもしない考え方に気づいて空恐ろしさを感じたりする。
まして実の親の、最近の弱り方といったら遠くない未来のさまざまなことどもを想像して、時間が誰にも平等で決して無限でないことを思い知ったりするのだから。
自分の思うある状態になるまで、行動を動かさないでいたら手遅れになってしまう気がしている。
けれど、人生の最後は故郷で過ごしたいといって、あっさりとその人は東京の家を売却して、なんと連絡もくれずに去っていった。その後の風の便りなども聞かない。そうなのだ、文字通り私とその方の縁はそこまでであった。
時折、新しい店ができたり、学生の数が道路に増えたりすると、その方の去ってからどれほどの時間がたっただろうか、などとふと思ったりする。
それは、私にとってある種の「警告」めいた出来事だからだ。
人は、いつまでもそばにいない。その人の都合で去っていく。
もう80歳くらいにはなってらっしゃる在る方の希望を、ずっと煮え切らない態度で流してきてしまった。それはもう完全に自分の生活スタイルのせいで。
落ち着いたら、時間ができたら、体力が許せば。
そういって自分の都合を優先していたら、時すでに遅しとなるのがこわい。
こわいならば、いやなのならば、動きだすことにした。
どこからできるのかわからないけれど、見えない先のことをおそれて行動を控えている時間はもうない。
有限の時のなかで何を思い、何をなして生きていくのか。
そんなことを最近は痛切に考えている。
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