その洋服が自分を苦しくさせる

「着たいお洋服と似合うお洋服は違う」。

これは私が気に入ってよく使う表現のひとつだ。

使うシーンは、ファッションの場ではないのだけれど。

仕事の適正のことなのだ。

photo by Fede Racchi

それこそ20代の終わりから、30代の半ばあたりの自分も

「苦もなく簡単にできると思っている仕事」には価値がないと思っており、

反対に、

「血のにじむような努力をしてこそ仕事」と思い込んでいた。


けれど、苦も無く簡単にできるのは、適正があり向いている仕事に多く、

血のにじむ努力を要さないと成立しない仕事には、

憧れが多分に含まれつつ、やってやれないことはないだろうけど

多くの時間を費やすわりに、それを「苦もなく簡単に」できる人には

到底かないっこないのだ、と理解するまでに本当に回り道をしてきた。


でも、その回り道は言い換えて「青春」なんじゃないかとも思っている。

無意味に見える大いなる回り道で、

傷みを知って、四方八方の壁に囲まれて涙し、

己の非力さを知る。


そこからさらに、道は2つ示されていて

「それでも血を流し続ける」生き方と「スムーズにできる」生き方とがあるのだろう。

私もずいぶん時間がかかってしまって、

憧れたあの道に、努力すればついていけると信じた自分の青春に

別れを告げることが一番つらいことだったと思う。


けれど、そこから割り切って

こんな自分でも求めてくれる人がいる仕事を大事にするようになった。

そうしたら、

その場所にいる自分は「無敵」なんじゃないかと思えるようにまでなった。


自己満足でもいいのだ。

似合う洋服で満足できるということは、

自分のありのままを認めることなんだと思うから。


多くの人が周りでも、この不一致にとても苦しんでいるのを目にする。

一応私は経験者として、

「着たいお洋服と似合うお洋服は違うんだよ」と言いこそすれ、

いちばん大切なのは

本人が自然とその理解、納得の境地へと至ることだと思う。


でもそれを思うと、すべての人が似合う洋服での自分を磨き続けたら

人の数だけ輝きが生まれて、

それこそ多様性が価値と言えるんだろうな。


なんてことを思う、

風が通り抜けて気持ちのよい土曜日。


箱草子仮名手本。

泡沫のように浮かんではパチン、と消えていく。 その「束の間」にピンを指して標本にしてしまおう。

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