塩野七生さんの「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」という作品に夢中になって
いっとき、本のなかの、いや、塩野さんがいきいきと甦らせ再生したチェーザレ像に
ガチでほれ込んでしまったことがある。10年ほど前のことだ。
photo by mark sebastian
もともとチェーザレ的な、そしてその父親で教皇にまでのぼりつめたアレクサンデル6世的な
権謀術数を大きな声では言いにくいがきらいではない。
「権謀術数」は、憧れて憧れて、欲した能力だけど無理だった。
才能がなかった。
だからこそ憧れが強まった。
チェーザレ父子はその権化とも言え、かの有名なマキアヴェッリが著した「君主論」のなかでも第17章 - 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか-
において、チェーザレをひとつの理想的な君主の在り方としてひいている。
この「君主論」は今読んでも非常に真理をついていると思われ、だからこそ1500年代に刊行された
書物が2018年の現代においても愛読されている所以なんだと思うけれど。
君主を国家元首にも、経営者にもあてはめながら読むとさらに納得がいく。
厳しさが時に愛である場合があるが、顕れとしては厳格さであるから
当然推測のできない人々からは単純に歓迎されない。
幾人かの優れた経営者たちが、苦い涙の潮を飲み下しながら
極めて厳しい決定をしてきたのを見てきた。
その場合、今目の前にある結果を永久結論と見ておらず、視界の先にある「近しい未来で出る結論」を重要視するが故の厳格さであり、
それは往々にして「近しい未来」が「今」となったときにのみ、かつて傷を負ったと思い込んでいた人々が「長い目でみればそれでよかったのだ」との結論を得る。
経営者だけが、その先にある未来のために結論をもっていたのだ。
(出典:惣領冬実作:「チェーザレ 破壊の創造者」より)
塩野氏の描き切ったチェーザレは、たぶんに塩野氏の理想が投影された非常に色気のある人物像になっている。非業の死を遂げたこの父子がもっと生きていたらイタリア史は変わっていたんじゃないかとも思う。
けれど死すらも今となっては華麗さを添えるばかりなのだけれど。
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